タイムラインに流れてくる何気ない朝日の写真で、いきなり夜が終わる。
紺色のカーテンを閉め切っているこの部屋は朝と夜の区別が殆どない。普段は開けて眠るのだが、作業が朝まで長引いたためにそのままだった。焦って窓を開けると、とっくのとうに、といった具合にもうかなり明るくなっている。陽がのぼるのがまた随分と早くなった。
燦々とした太陽の光はきれいで心が晴れる日もあるが、あまり早いと急かされているようで落ちつかず、冬のいつまでも薄暗い朝が恋しくなる(冬は冬で夏の朝を欲していた気もするが)。
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一晩中悩みつづけ、結局殆ど進展のなかった制作を放りだして外の空気を吸いに出る。携帯も財布もおきざりに、身ひとつで散歩するのが好きだ。煩わしい電波もなければ、公共料金の支払いを思い出してコンビニに寄ることもない。その間だけはこどもみたいな心で、いつもの見慣れた町をぼんやり歩くことができる。
胸いっぱいに吸い込む息は、燻したような匂いがした。何日か経ったが、斜向かいの火事跡はまだまだといった具合だ。日差しのせいか、まっ黒でなく辛うじて木の外見を保っている部分に気づき、そのコントラストがよけいな生々しさを増加させる。
ただ、それとは裏腹に空には夕焼けのような陽がのぼっていた。風はサンダルのすきまをすり抜けて指先をくすぐってくる。いつもの散歩のルートをはずれ普段あまり通らないような道を進むと、案外素敵なものや懐かしいものに出会ったりする。
小学校の帰り道にあった、坊主の顔のような大きな岩。目のようなくぼみと口のようなラインが一本入っていて、6年生くらいになってもまだ毎日下校時に面白がって撫でたり、草を詰めたりした。
どこかの国から来た人が何人も住んでいたぼろぼろの民家も。最近はぱったり見かけないが、よく夏になると集団で自転車にのって買い物から戻ってくる姿をみた。今年の夏は会えるだろうか。
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これまで映像を撮る事も多々あったが、今になってよりその大切さを痛感した。写真も思い起こしたり想像する余地があり、素敵だ。ただ情報量では映像にやはり劣るように思う。
音や会話、空気感まで事実として残る。
一度見返せば、ありありとその日が思い浮かび、帰ることができる。
こういった文を書くたび、いかに自分が過去をひきずって生きているかが可視化されてしまい息苦しくもなるが、おそらくもうこれは治らない。
もし治ってしまったら何も生めなくなってしまうような気さえする。
町は、自分が幼かったころと比べてもそれという大きな変化はない。それでも、チェーン店でもない割にだだっ広かったスーパーはコンビニに変わってしまったし、昔から友達とよく行った中古屋は3年程前につぶれてしまった。寂しかった。
勿論それぞれ理由はあるだろうし、新しいものはやはり便利だ。ただ、生まれ育った町がほんのゆっくりでも変容していく姿は記録に残しておきたいと改めて思う。
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取り留めのない文になってしまったが。つまるところ言いたいのはこの散文を読む誰かにも、身近なものたちを一度撮っておくことをお勧めしておきたい、というようなことである。
個人的には、時間というのはそれだけで価値だ。十年もすれば、きっと大切な映像になると思う。
十年経ってもいらなければ消せばいいだけの話だ。
何年後かの自分が、よくこんなの撮ってたな。と褒めるような記録を今日も残したい。