昨晩は久々にどしゃ降りのにわか雨を食らった。

この地区において強い雨などなにひとつ珍しいものでもないが 初夏、梅雨入りの時期 雨に打たれながら走って帰るあの感じは季節を感じて悪くない。無論、濡れないに越したことはないし降らないのがいちばんいいのだが。最近は野外の映像撮影のこともあり、猶更だった。

 

 

ギターを担いであちらこちらへと出掛けることが増えた。

自分の住む場所はもともと静かな土地で、住宅街だが昼間に出歩いてもあまり人とすれ違わないような場所だ。近所の山をほんのすこしのぼったところに小さな公園があって、そこもまた殆ど人の影はない。公園と言っても、そこそこの広さの草っ原にブランコが一つぶら下がっているだけ(先日見た際はそれさえ結ばれて使えなくなっていたが)のものだが、昔からその場所が好きだった。

すこし高い場所にあるそこからは住む町のほとんどを一望できて、ひととおり眺めたあと、ブランコに腰おろしのんびりギターを弾く。朝明るくなりかけの頃、昼ごはんを食べたあと、一仕事区切りをつけた夕方にも、とにかく度々ひとり耽った。秘密の場所、というにはあまりに公的な空間すぎるだろうが 自分にとってそんな場所だった。

 

一年くらい前から、ここに限らずいろんな場所にギターを連れていくことが多くなり、いくつかはお気に入りの場所になった。

大学にいた頃はいつでもそこに部室という場所があって、場所には困らないし 友人や先輩後輩がたえず話していた。できればもう何年もそこにいたかったけれど、そういう訳にいかないのも知っていたし、そもそも昨年からはウイルス騒動でその扉を閉じてしまった。それもあって、自然に次第に 草木の中でうたう頻度が増えていったのかもしれない。

 

 

 

自然はいい。特に言うなら川辺が好きだ。

あんまり人づきあいがうまくない自分にとって、ある種のいちばんくつろげる場所なんだろうと思う。草木と風のこすれる音とたえまない水の音がひたすらに脳を澄ませて、丁度よく集中する。

昨日はまた新しい場所をみつけた。すでにお気に入りの場所のすぐ近くだったが、そこはより秘密の場所、という感じがして好きだった。ひととおり歌って、ぼうっと考え事をしたり、日記をつけたりするその時間はこの町でいちばん穏やかだったと思う。

 

 

 

 

弾き語りというのは、究極だとおもう。ひとつの行き着く先。

宅録に出会ったり、バンドやユニットを組んだりやめたり組んだりやめたり、そんな傍にいつも弾き語りはあった。これにあと僅かでも自信を持てたなら、毎度毎度 性懲りもなく振り回された心もすこしは無事だったろう。

昔から弾き語りというものにあまり自信がない。一度も持てたことがないと思う。ギター一本弾きながらうたうそれは自分にとって究極だった。度々弾き語りでお誘いを頂くことがあるが、はたして人からお金をとるほどの価値があるのか考えた時に確信がない。それでも数度、イベントやライブに出たが、その時できるベストの演奏をしたと思ってもどこかにもやもやが残った。

 

それでも、ここここ数ヶ月川原で演奏するたび、すこしずつ自分の弾き語りというものに向き合えるようになってきたような感覚がある。

いまはまたひとりでライブに出てみたい気持ちがあって、お誘いをもらった時に確信をもってイエスを返せるように それを磨く日々だが。めざしている人たちの 憧れの人たちの弾き語りは異次元だ。6本の弦(偶にもっと多い人もいるが)と歌声、それだけで目を逸らせないし、息もつかせない。要素が削ぎ落とされているからこそ、ひとつひとつの動作や発音に隅々まで意識が行き届いている。

 

 

川原はそれに向いているから好きだ。自分の細かなひとつひとつと向き合うことができる。

次、ひとりでステージに立つ時はすこしでもめざすものに近づいていたい。また、その公演がそう遠くないことを願うばかりだ。