眩い光のなかにいた。

ほんの僅かな無音と暗闇の後、赤黄青緑の目を刺すほどの光。また暗闇。光。のくりかえし。敢えて例えるならば晩夏の手持ち花火などは近いと思った。この土地には似つかわしくない、すっ と晴れた日のこと。その日差しの一片も入らない三月の地下室で、私はあまりに眩い光のなかにいたのだった。

 

長岡駅前は、先日までのしぶとい寒さを思い出させるように茶色い雪が残り、それを蹴飛ばしながら歩く。全国的にもそうだったように今年は、終わらないとすら思える長い冬だった。とはいえこの日はもう春と呼んで差し支えないほどに暖かく、それが三月九日の、ちょうど後輩たちの卒業公演の日であったことに少し驚きながら空を見る。希望を感じてしまう朝。希望に染められてしまうような朝。終わっていくものを前向きに捉えることのできない自分の、性分すら捻じ曲げていくように。柔らかい光の粒が射していた。

開演までの時間は穏やかで、数カ月ぶりの駅前を歩きながら過ごした。別段私が感傷的になる必要などないのだが、好きだった喫茶店の抜け殻やベンチで食すエッグサンド、静かに後輩たちがギターを抱えて階段を下っていく様、何もかもひどく脆いもののように思えて、あまり考えないようにする。穏やかなようで、その実さまざまなものが心中で渦巻くのを感じながら、ただ待っていた。

 

 

よくこういったものの比喩表現には線香花火が用いられるが、文頭で私が記述した花火のイメージはもっと序盤にやる、派手に吹き出す類のものであった。ネズミ花火でもいいかもしれない。この時世もあって私の感覚は二年前あたりで止まってしまっていて、ふたつ下の後輩というのはいつまでも二年生のつもりだったのに、かれらは呆気なくそれを覆すほどの光をばら撒いてくるから困る。最上級生。何年生、と数字が繰り上がらなくなって勝手に止まっていたのは私だけで、二年の月日をかけてかれらにもう、追いつかれたような気さえした。

出演組全体でいうならば、私がサークルに在籍していた頃からあるバンドは半数にも満たない。それでも、図々しくも行ける限りのライブに訪れていただけあり、私にとってはどれも見知ったバンドであった。バンド名を見て、何のコピーか考えていた頃がもう懐かしい。かれらのこれまでの軌跡を辿った上で、学生最後の大舞台を眼前で見られることが何より嬉しかった。一組ずつらつらと書き連ねたいところではあるが私の筆の遅さでそれをしてしまうと卒業式の日すら過ぎてしまいかねないので、ライブの二日間に直接交わした言葉たちで容赦してほしい。

 

 

個人的な思いをいくつか短く書きたい。

私の音楽ルーツのひとつにGalileo Galileiというバンドがおり、バンドを聴き始めた頃の自分と、今の私の音楽の趣味嗜好とを繋いだミュージシャンだと思っている。卒業ライブの舞台でPtolemyの演奏を見て、羨ましかった。私にとってどれも思い入れの深い数曲、中でもImaginary Friendsの一節、

 

「ここから先は 僕はいけないから 見ててあげるから きっと楽しいから」

「だってね君の居場所は ここじゃないから ここじゃないから さようならだよ」

 

いままで絵本の登場人物を俯瞰するように聴いていた歌を初めて、絵本の中の見送る側に立って聴いた。数えきれないほど聴いた歌を別の視点で咀嚼できたことに驚きながら、ああ今日はかれらにとってひとつの最後なのだと改めて思う。見ててあげるから。優しいともいえるし薄情とも思えるこの一節を聴くたびに、遠ざかっていく後輩たちのことを思い返すのだ。これからずっと。

 

 

タンバリンズは、未だその中央の立ち位置に自分がいるような気がしてしまう。私の在籍した四年の月日において、それだけこのバンドの存在は大きかった。それゆえに勝手ながら顔ぶれを変えながら遠ざかっていく事に対し微妙な心境ではあったが、それももうないほど、ひとつのバンドだった。卒業を目前に控えて最後に鳴らす赤黄色の金木犀のイントロ。その旋律より美しいものはきっとないだろうと思った。それは、個人的な思い入れを控えた私だけではなく、もっと言えば原曲すら知らずとも、あの場にいた多くの人が感じただろう。それだけ、あのステージは私の心を打った。

そして、夜明けや虹の際に私が見た景色は、未だ完全には開かないあの丸窓の向こう側にかつて存在した熱気と比べても遜色ないように見えた。私はフロアにいつかの薄汚れた白い床や、いまや近いようで遠い同級生や先輩たちを勝手に投影し、勝手に寂しくなり、勝手に涙した。

 

 

Astra。私はサークルに於いて、オリジナルバンドだろうとコピーバンドだろうと熱が注げるならばどちらでもいいという考えだが、単純に、知人がオリジナルをやっていれば嬉しい。特に、近しい人の書く詩に触れられるのが好きだ。物理的に触れることのできない、生々しい心から絞り出た文節たちは、何物にも代えがたい。

私はあまりライブハウスという場が得意ではないのでかれらの学外での活動にふれることは殆どなく、知った風に言うのも憚られるが、卒業ライブのAstraのステージにはこれまでの場数が見えたように思う。最後の曲が印象的で(多分"星の瞬き"だと思う)、上手な編曲だと思った。この曲に限らずだが匡玖は曲のニッチな部分まで分析するし、それを言葉で伝えるのも上手なので、きっと細かいこだわりが沢山昇華されているのだろう。そんなことを考えながらステージを見つめていた。

 

後輩たちとは、私の交流スキルの低さも相まって作編曲のことに関して殆ど話すことがなかったのが心残りである。それでも、和葵の「解散は絶対せずゆるゆると続ける」という変に気張ることのない言葉に安心し、そう言い切れるバンドの演奏はやはり通して良いものであった。そして何より、「一曲作ってみたら意外といけるなと思った」の言葉が嬉しかった。あの一言は後輩たちにまた次の種を蒔いただろうし、ハードルを下げたと思う。いつか優樹がアバヨズというバンドの影を追うような話をしてくれたけれど。かれらはもう立派に、後輩たちの憧れのバンドの形をしていたと私は思った。

 

 

 

 

つまるところ、私の好きだった音楽の形はここにあったのだと思うし、これと同じものはどこにもないということなのだろう。少なくとも私にとってサークル内だけの、コピーバンドが主の、クローズドな公演におけるあの空気もまたひとつの理想なのだと思う。自分たちがやりたいだけの曲、あるいは身近な先輩や同級生、後輩に贈りたい曲、それを顔馴染みのフロアが聴くただそれだけの空間。それはあくまで遊びだと、ぬるいという者もきっといるだろうが、本当の意味で心を動かされた瞬間は、思えばいつもあのサークルハウスの中だった。知名度もトレンドも考えずに曲を書き、無邪気に遊んでいる様はそれだけでいつも美しかった。

大学を終えてこれから先、音楽が傍にあり続けるならば様々な形で心を動かされることと思う。どん底の底から掬ってくれるかもしれないし、驚くほど共感するような恋の歌に泣いてしまうかもしれない。若しくはただ単に音が格好良くて、溺れるほど好きになるかもしれない。ただ、卒業ライブで味わったその感情は、おそらく生涯もう二度と手に入らないものと考えていい。それに近しい感情ですら、もう殆ど手に入らないと思う。この世は大抵のものに代替品があり、かけがえのない物などそう多くはないが、あの日に味わった、あの実感の湧かない呆気なさはきっと。そのひとつなのだと思う。

 

いつの日も、終わりの実感というものは終わった時ではなく、次が始まる時に訪れるのだと思う。年度が変わり、見知ったバンドの名前がフライヤーに無い時。働きはじめて、案外バンド練が無いことに慣れてしまった時。ギターを持っても何を弾いていいかわからなくなる瞬間が来て、ようやくすべてが戻らないことを実感する。したところでどうしようもないのに、その実感ばかりがいつまでも。悪夢のように体に残る。

それでも私はそれを美しいと思うし、その実感が湧いたときはできれば愛してほしいと思う。絵や文章や歌に昇華できたら素敵だと思うし、抱え込んで寂しくなるだけでもいい。何にもならなくていいから、何もしなくていいから、その記憶を失くさずに抱きかかえていてほしい。中学のころ音楽にふれてから10年近くという時が過ぎ、色んな曲が詩がライブが私の心を揺らしたが、その感動のどれともかけ離れた、異質な感動が総音にはあったと私は未だに思う。異質で、ぐちゃぐちゃになりそうなほど歪で美しい感動だった。それがもう二度と味わえないことも含めて。

卒業ライブ。場所こそ違ったが、かれらもそういったことを感じていたらいいなと思う。

 

 

 

 

かれらの放つ光。負けじと照らす発光ダイオードの光。階段の先にハザードの光。駅前の電飾の光。グラスとシャッターと光。それらの光から、気づけば一週間近く経っていた。未だ文になるほどの愛着が残っている嬉しさと、つらつらと終われない未練がましさや空しさを混ぜ合わせながら、残された数分の今日のことを思う。日付が変われば明日は卒業式が執り行われるらしい。

 

記念の写真撮って僕らはさよなら。あと私にできるのは、明日いつもの米百俵の群像に雪がかぶっていない事を微力ながら祈ることくらいか。

 

 

 

耳栓代わりのイヤホンを外すと、軽快なリズムは天井から降り注いだ。

ここに腰下ろした時には貸切状態であった店内も人けを漂わせ、手持ち無沙汰もとい背持ち無沙汰であった椅子たちも、いくつかは静かに役目を果たしている。わたしは窓の外に目を向け、薄白のカーテン越しに見るくすんだ夜の色で、思ったより時間が経っていたことに気づいたのだった。ここ数日、頭の調子は悪くない。相変わらず思考こそぐちゃぐちゃと絡まっているものの、その矛先はどれも絵の方を向いている。人様に絵を見られる予定があるからか、偶々調子のいいサイクルだったのかは判らないが、久々にわたしは自分の絵と向き合ったような気がした。ここに戻るまで、随分と永く時間を要した。

布越しの薄い信号の光がぱっ と色を変えるたびに横目で眺めて、またわずかに進んだ時間を感じるのが恐ろしい。現在ちょうど八時、ちょうど黄信号に変わり、それを書き留めるうちに赤に追い越され、画面は八時一分を映している。この一分が、もっと細かく刻まれた時の粒子が、砂のように降り積もって。砂漠になるころ、わたしもからからに乾涸びる。

 

マルクスの自省録に書かれている"これから一万年も生きるかのように行動するな"という一節に、どきっとする。」好きな漫画にあった場面だが、そのページを見て以来、棘のようにちくりとどこかに柔く刺さっている。取ったと思っていた靴の中の木屑が、忘れかけた頃にまた足の裏をつつくように、掠めるように。つい最近めでたく同作品はドラマ化され、先日ふいに流れたそのシーンでわたしは再び、どきっ とさせられたのだった。

随分前に、自省録は一度読んだはずだったが。その一節が全く印象になかったというのは、当時の自分が、時間の浪費など気にもとめない程に満たされていたからか、或いは途中で読むのをやめたからか。適当に流し見して、読み飛ばした可能性もあるが、なんとなく、どちらにせよ空しい気分だ。

 

ふと顔を上げると信号は青色である。先のくだりから、一体何度その色を変えたのだろう。真上を向いていた長い針が丁度真下を指し示す。わたしはなんとなく残していた台湾かすてらの四分の一ほどを口に入れ、最後にまた一度、信号が変わるのを見てしまったのだった。

 

 

たえず雪が降り続く。

 

毎年、夏のど真ん中で、はて冬とはどんなものだったろうかと考える。

あまりに蒸し暑くておかしくなったのか、はたまた毎年考える故に変に癖がついてしまったのか、頭の中で冬の寒さ、雪の白さを形作るのだが、きまって上手くはいかない。二十と数年見飽きていても、凍えるような空気と、氷の塊が降ってくる世界に想像が及ばない。そんなおとぎ話のような町で、いまわたしは外から戻り、震えながら炬燵をかぶっている。

二月。寒さに辟易し、もはや誰も雪で達磨など作らない。日に日に歩道を縁取る雪壁は高さを増し、車道はとうとう半分になった。特に夜は毎晩数回、屋根から大きな雪のかたまりが落ちる。わたしはそれがはじめ、どうにも身投げの音に聞こえて、日が昇ってから外を覘くのがほんの少し怖かった。

 

とはいえ、初週を過ぎもう積雪のピークも過ぎるころだ。外出する際は無意識のままに棒を持ち、雪塊から車を発掘するようになったし、さらにはその前に忘れずにエンジンをかけておけるようになったし、冷えた車体が走り出しにキュルキュルリと唸っても慌てることはなくなった。こうなるといよいよ今年も冬を乗りこなしているな、としみじみ思うわけである。

 

 

音もなく、ついさっきつけた足跡がなくなってゆく。

精神まで凍り付くように重たくなってゆく毎日のなか、今日という日はいくらかましであった。夕暮れから夜にかけて、きゅうにすうっと何枚も絵ができる。随分久しぶりの感覚だった。

スランプなどど銘打つことすら烏滸がましい程に、ここいらのわたしは腐っていたのだ。ペンを持つことも、言葉を書くこともできればしたくなかったし、持ったところでふらふらと描いた線を数分後にかき消すだけであった。なにも生み出せない日々は、わたしという人間の価値を危うくさせる。満たせなかった今日を少しでも回収すべく、短い夜をあっという間に消耗し。それでもなにも得ることなく、明け方気を失うように眠るのだった。そんな中で、すらすらと会話をするように、なんでもないように絵にできた今日、わたしは随分とわたしを赦すことができた。それが何よりよかった。

 

先日見たテレビ番組で、如何にもカリスマ然とした風貌の男がスランプについて話しており、「二年曲が書けず苦しんだが、ある日なんでもないように十五分ほどで一曲かけた。でも私はこれを二年と十五分かかって書いた曲だと思っている。」という一説が妙に印象的だった。わたしもうまく生きられない期間をそう捉えられたら、少しは意味を見出せるのだろうか。ただ、自身の甘えにもなりかねない言葉だとも思った。

 

 

月末には、イベントへの参加が決まった。

フライヤー上で、また憧れのバンドと名前を連ねられていることが嬉しい。わたしは久しぶりに絵の展示と販売というものに取り掛かる。サークルのライブの後ろで、自作のTシャツを売っていた頃はどんな気持ちだっただろうか。三年ほどの月日だが、学生時代特有の真っ青な風が、とおい記憶の中でごうごうと吹きすさんでいる。

明日の晩、わたしは明日のわたしを許容できているだろうか。あの真っ青な風を思うたび、今、一番に欲している。燃え盛る不安も影も、あの頃あの風の前ではろうそくの火ほどでしかなかったように思えるのだ。

 

 

年末大掃除の時期を周回遅れしたところで、わたしはようやく自室を片付け終えていた。

比喩でもなんでもない程にうずたかく積みあがった書籍に書類。衣類。形容に難しいいくつものインテリア。とはいえ現在、見違えるように片付いた同自室に腰をおろし文を書いているわけなので、最早荒れ果てていた頃を想像することさえ難い。それほどまでに沢山の物質や、それに伴う記憶や追憶たちを、わたしはいくつもダンボール箱に閉じ込める形で整理整頓したのだった。

 

クローゼットは魔窟と呼んで差し支えなかった。

部屋に人を招くたび、幼い子供のように、床を脅かすそれらをおもちゃ箱にただ投げる。そういうその場凌ぎを幾度となく繰り返した結果だった。中は酷い有様で、絶妙な均衡によって保たれたそれは、ひとつ引き抜くごとにひとつ崩れていった。
物覚えはいい方だ。それらひとつひとつに、手に入れた時の記憶のかたちがあり、しかしわたしは上手に四角になるよう、箱に綺麗に嵌め込んでいった。心や記憶も手に取れる形で、こんな茶箱にコンパクトに収納できたのなら。 どれだけ良いだろうか。名前を書いて、必要な時まで封をしていたいものが数えきれぬほどあるのだ。

 

そんな魔窟の奥深くに、さながら宝箱のように箱が一つ座す。不恰好に閉じられた蓋をはがせば、中学時代の文集やアルバム、捨てられなかったスケッチブックやプリント。授業中に目を盗み回って来た切端の手紙などがあらわれ、同時に、十年近い歳月の空気や臭気が途端に部屋に立ち込める。化石になった感情や後悔がむせ返るほどに押し寄せ、友達や先生の仕草が浮かんでは消える。誰かに会いたくなったり、誰にも会いたくなくなったり。しばらく茫然と、ただ床に横たわりただ目を瞑り、そのまま少し眠ってしまう。

 

 

今日もわたしは日課のように青地に黄文字の看板に吸い寄せられていた。

中古屋は好きだ。そこらじゅうに見知らぬ誰かの記憶が満ちている感じがして、それらがただ雑多に混じり合う。慣れた足どりでいつもの順路を徘徊し、大方めぼしい物がない事を確認し、本を漁りに階段へ向かう。その途中に薄らと目に入る。一瞬迷った末に、わたしはその人にやや臆した声で話しかけていた。見知らぬ男に声をかけられ、その人は訝しんでこちらを伺うが、続けてわたしが名乗ると、はっとしたようにその名前を呼んでくれた。

中学時代の担任の先生だった。十年ほどの月日、一目見てわたしが気づいたのは、恐らくは、つい先日に上述した魔窟探検があったからである。そうでなければそのまま階段を下る、或いは、そういえば似ている と思いながらすれ違っていただけの日だったろう。中学一年時のみのわずかな時間だったが、印象的で、好きな先生だった。

何から話したものかと思い、わたしは、今でも絵を描いていて、未熟ながらもそれを仕事にしているという話を選んだ。先生はそれを喜んで、「まだ切り絵、飾ってあるよ」と言う。一瞬、頭のうちを過去に向かって思考がかけめぐり、思い出す。その頃もわたしは切り絵というものに熱中しており、先生が好きだった漫画を切り絵にして渡したのだった。懐かしかったし、嬉しかった。それを皮切りに、わたしはそれからの十年が地続きで今になっていることを実感し、苦しくもなる。十年という言葉の重さと、この一瞬のような道程は果たして釣り合うだろうか。頭のなかで、小さな天秤がひっくり返って崩れるのを感じて、わたしはそれ以上を考えるのをやめた。

 

二月のハード・オフで、わたしはただかつての中学生だった。本来の目的であった本のことなどとうに意識の底に沈みきって。閉店の時間がせまっていた。

 

 

夜、交換した先生の連絡先から写真が届いた。飾られた、十年前の切り絵の写真である。人生の半分に近い、長い月日がたった。もはやそれを自分が作った感覚という実感すら限りなく薄いが、それもどこかロマンチックな話だと思った。

こんな偶然のあとであるからか、すぎた時間への妄執も、今日ばかりは許されているような気がして。

嵐のような毎晩のなかわたしは、僅かだが安堵の夜を得たのだった。

 

 

 

 

驚くほど冬だった。

道端の雪という雪が風に巻き上げられ、そういえばこの町の一月というのはこういうものだった、としみじみ思うほどの。冬だった。

 

ようやっと乗り切った十二カ月はまた一からのカウントが始まる。年が明ければしけった爆弾を手渡され、抱え続ける。ひとつ乗り切ったことに僅かだが安堵し、しかし積み重ねた二十とすこしの不発弾がかたっ と動くたびに身構える。

ブログトップには暫く更新のないページに表示されるであろう胡散臭い広告がべったりと貼り付けられていた。前回の記事下部には 196日前 の表示。初夏のころである。

 

 

2021という年は、静かな一年だった。

もっとも それまでは賑やかすぎた、とさえ言えるので、穏やかな一年だった が正しいかもしれない。これといった波風のない、凪の年。緩やかに流れ、時に沈みかけ、浮き上がる。ただ、過ぎてみればそれは自分がとても必要としていた時間だったのだと感じる。向き合い続けて視野が狭まっていた様々を、遠くの高台から俯瞰するような時間だった。

 

作る事に関し、模索する余裕をもてたことが何より幸せであった。

詩を書いている時間。本を読む時間。季節や時間に合わせて変わっていく自分の苦楽を理解する時間。文章にじっとりと長くふれていると、自分の綴る言葉も少しずつ純になってゆくのを感じる。頭の中のそれは、以前に比べてまた少し形にできるようになった。元々言葉を組み立てるのには時間のかかる性分、納得いくまで向き合う時間がある程度持てるというのは本当にありがたいことだった。そんなものは結局いくらあろうと足りないのだが、大事な詩は沢山できた年だった。

 

叶った夢がいくつかあり、文字通り夢のようと疑う出来事もいくつかあった。ただそれ以上に、長く薄暗く、先の見えない洞穴が広がっている。日に日に、年々時を重ねれば重ねるだけ暗くなる。かなえた夢のひとつやふたつではとても清算できない暗闇。わたしはそこに不発の爆弾を、抱えきれない今日の明日への憂苦をそっと押し込めて、また寝付けない夜に丸まっているだけなのだ。

恐ろしく寒い、冬の夜だった。

 

 

 

 

 

 

昨晩は久々にどしゃ降りのにわか雨を食らった。

この地区において強い雨などなにひとつ珍しいものでもないが 初夏、梅雨入りの時期 雨に打たれながら走って帰るあの感じは季節を感じて悪くない。無論、濡れないに越したことはないし降らないのがいちばんいいのだが。最近は野外の映像撮影のこともあり、猶更だった。

 

 

ギターを担いであちらこちらへと出掛けることが増えた。

自分の住む場所はもともと静かな土地で、住宅街だが昼間に出歩いてもあまり人とすれ違わないような場所だ。近所の山をほんのすこしのぼったところに小さな公園があって、そこもまた殆ど人の影はない。公園と言っても、そこそこの広さの草っ原にブランコが一つぶら下がっているだけ(先日見た際はそれさえ結ばれて使えなくなっていたが)のものだが、昔からその場所が好きだった。

すこし高い場所にあるそこからは住む町のほとんどを一望できて、ひととおり眺めたあと、ブランコに腰おろしのんびりギターを弾く。朝明るくなりかけの頃、昼ごはんを食べたあと、一仕事区切りをつけた夕方にも、とにかく度々ひとり耽った。秘密の場所、というにはあまりに公的な空間すぎるだろうが 自分にとってそんな場所だった。

 

一年くらい前から、ここに限らずいろんな場所にギターを連れていくことが多くなり、いくつかはお気に入りの場所になった。

大学にいた頃はいつでもそこに部室という場所があって、場所には困らないし 友人や先輩後輩がたえず話していた。できればもう何年もそこにいたかったけれど、そういう訳にいかないのも知っていたし、そもそも昨年からはウイルス騒動でその扉を閉じてしまった。それもあって、自然に次第に 草木の中でうたう頻度が増えていったのかもしれない。

 

 

 

自然はいい。特に言うなら川辺が好きだ。

あんまり人づきあいがうまくない自分にとって、ある種のいちばんくつろげる場所なんだろうと思う。草木と風のこすれる音とたえまない水の音がひたすらに脳を澄ませて、丁度よく集中する。

昨日はまた新しい場所をみつけた。すでにお気に入りの場所のすぐ近くだったが、そこはより秘密の場所、という感じがして好きだった。ひととおり歌って、ぼうっと考え事をしたり、日記をつけたりするその時間はこの町でいちばん穏やかだったと思う。

 

 

 

 

弾き語りというのは、究極だとおもう。ひとつの行き着く先。

宅録に出会ったり、バンドやユニットを組んだりやめたり組んだりやめたり、そんな傍にいつも弾き語りはあった。これにあと僅かでも自信を持てたなら、毎度毎度 性懲りもなく振り回された心もすこしは無事だったろう。

昔から弾き語りというものにあまり自信がない。一度も持てたことがないと思う。ギター一本弾きながらうたうそれは自分にとって究極だった。度々弾き語りでお誘いを頂くことがあるが、はたして人からお金をとるほどの価値があるのか考えた時に確信がない。それでも数度、イベントやライブに出たが、その時できるベストの演奏をしたと思ってもどこかにもやもやが残った。

 

それでも、ここここ数ヶ月川原で演奏するたび、すこしずつ自分の弾き語りというものに向き合えるようになってきたような感覚がある。

いまはまたひとりでライブに出てみたい気持ちがあって、お誘いをもらった時に確信をもってイエスを返せるように それを磨く日々だが。めざしている人たちの 憧れの人たちの弾き語りは異次元だ。6本の弦(偶にもっと多い人もいるが)と歌声、それだけで目を逸らせないし、息もつかせない。要素が削ぎ落とされているからこそ、ひとつひとつの動作や発音に隅々まで意識が行き届いている。

 

 

川原はそれに向いているから好きだ。自分の細かなひとつひとつと向き合うことができる。

次、ひとりでステージに立つ時はすこしでもめざすものに近づいていたい。また、その公演がそう遠くないことを願うばかりだ。