耳栓代わりのイヤホンを外すと、軽快なリズムは天井から降り注いだ。

ここに腰下ろした時には貸切状態であった店内も人けを漂わせ、手持ち無沙汰もとい背持ち無沙汰であった椅子たちも、いくつかは静かに役目を果たしている。わたしは窓の外に目を向け、薄白のカーテン越しに見るくすんだ夜の色で、思ったより時間が経っていたことに気づいたのだった。ここ数日、頭の調子は悪くない。相変わらず思考こそぐちゃぐちゃと絡まっているものの、その矛先はどれも絵の方を向いている。人様に絵を見られる予定があるからか、偶々調子のいいサイクルだったのかは判らないが、久々にわたしは自分の絵と向き合ったような気がした。ここに戻るまで、随分と永く時間を要した。

布越しの薄い信号の光がぱっ と色を変えるたびに横目で眺めて、またわずかに進んだ時間を感じるのが恐ろしい。現在ちょうど八時、ちょうど黄信号に変わり、それを書き留めるうちに赤に追い越され、画面は八時一分を映している。この一分が、もっと細かく刻まれた時の粒子が、砂のように降り積もって。砂漠になるころ、わたしもからからに乾涸びる。

 

マルクスの自省録に書かれている"これから一万年も生きるかのように行動するな"という一節に、どきっとする。」好きな漫画にあった場面だが、そのページを見て以来、棘のようにちくりとどこかに柔く刺さっている。取ったと思っていた靴の中の木屑が、忘れかけた頃にまた足の裏をつつくように、掠めるように。つい最近めでたく同作品はドラマ化され、先日ふいに流れたそのシーンでわたしは再び、どきっ とさせられたのだった。

随分前に、自省録は一度読んだはずだったが。その一節が全く印象になかったというのは、当時の自分が、時間の浪費など気にもとめない程に満たされていたからか、或いは途中で読むのをやめたからか。適当に流し見して、読み飛ばした可能性もあるが、なんとなく、どちらにせよ空しい気分だ。

 

ふと顔を上げると信号は青色である。先のくだりから、一体何度その色を変えたのだろう。真上を向いていた長い針が丁度真下を指し示す。わたしはなんとなく残していた台湾かすてらの四分の一ほどを口に入れ、最後にまた一度、信号が変わるのを見てしまったのだった。