一年ほど、ずっと同じ曲の事を考えている。
この一年、決して多いとは言えないまでも一生涯歌うであろう詞と曲をいくつか書けたし、ここ数ヶ月は宅録に殆どの時間を費やした。一曲と向き合う時間は多ければ多いほどいい。バンドに努めていた時はまたすこし違ったが、机に向かい録った音をこねくり回し続け今はそう思う。
今後自分がもう二度と超えられない(音質やそうした意味ではなく)ような、そういうものをひとつ作っておかないといけない。高校時代、EP制作に狂っていたときも、確かそんな気持ちだった。思えば拙いものだが、十六、七の自分がなにを考え生きていたのか 聴きかえせばありありと思い出せる。そういう意味で、自分が曲をかく目的でもある、ある種の時間旅行機としての役割は大いに果たしているといえる。
このタイムマシンもとい自作の曲というものはそんなに器用なものではないので、一台につきひとつの時間にしか戻れない。この曲を聴けばあのときに、こっちはあの時に。
だから本当を言えば数もまた大事なのだが、ある程度時間をかけずに作った曲はどうにも思い出す記憶の純度が低い。ぼんやり懐かしいな、とは感じるが、もっと生々しくその瞬間に戻れるようなものが欲しい。少なくとも、今の自分にとっての音楽はそういうものだからだ。
一年くらい。去年の頭くらいだから、一年と半分くらい同じ曲のことを考えている。
その間にもいくつかの曲を作って、そのどれもが大事なものとなったけれど、ひとつだけ特に上出来の時間旅行機がある。自分以外の誰にも乗りこなせないけれど、苦しくなる程にその頃に戻れる曲の事。 一年ずっと考えながら生きている。苦しい曲だけれど、考えてそれを組み立てることは楽しい。その純度が少しずつ上がっていくことが嬉しい。
先日からその曲につける映像をつくり始めた。
コクピットができて、外装をつけて、いまは塗装しているような感覚だ。なくても飛べるけれど、あるならば より鮮やかだ。楽しかったことも、苦しかったことも。映像を妥協しないというのは中々難しいもので、悩ましい。それっぽい演奏シーンで間を持たせることはできるだろうし、側から見れば同じかもしれないが、ぼんやりしたものならば無い方がましなのだとも思う。
純度を上げるためこの間は、小学校から苦手だった裁縫を勉強したりした。
店を回っては布を見繕って、ちくちくと衣装を縫っていく時間はおだやかで涼しい。ひと針ひと針が、思考や気分を布に染み込ませていくようで、生地と自分が近づく感じがする。ギターの色に合わせてストラップも改造してみた。つくりは市販品のように綺麗にはいかないが、愛着はひとしおだ。
またこの間は、久々にあたらしいカメラを手に入れたりした。
100年も昔のカメラだけれど、見様見真似で改造(というほどのものでもないが)して、映像を撮れるようにしてみた。ミュージックビデオを撮るならばどうしてもこのカメラで撮ってみたかったから。改造に行き詰まっていた時、ホームセンターで見つけた排水溝部材が偶然ぴったりで完成した時は感動した。
それから、絵コンテにはじめて挑戦してみたり、ビニルの生地に半日中ポンチでトントンカンカンと穴を開け続けたり、ずいぶん年代物の天体望遠鏡を買ってみたり、砂浜の丁度いい貝殻を拾い集めたりした。
明日は砂時計を作らなくちゃいけないし、穴あけの続きをしなくちゃいけないし、撮影したい施設に連絡しなくちゃいけないし、フィルムを漂白したりしなくちゃいけない。
このいくつもの手間にどこまで意味があるか
いまは確かめようもないが、ひと手間ひと手間が数年数十年後に活きてくると信じるしかない。このタイムマシンは、ある程度時間が経たないと出来がわからないようだった。
そういうものだ
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音楽で食っていく とか そういった夢を見なくなった。
1曲に一年もかけていたらアルバムなど死ぬ頃に十枚出ていたらいい方だ。だから、見なくていい。必要なら一年でも十年(は流石に長いが)でも向き合っていたいと思う。
よく共演していたバンドが大きくなっていくのを見て、不貞腐れたり悔しがったり強がったりしながらごくたまにピカピカのよく出来た時間旅行機を見せびらかしたい。インターネットの端っこの方に、プラスティックの一等星をこっそり吊るしていたい。
ときどき惨めになりながら、昔つくった曲に救われて生きていたいと今は思う。